
3.11あの日、あの時間突然の揺れにコップの並んだ棚を押さえていました。
腕の間をすり抜け床に落ち割れたガラスが靴の上で光っていました。
やっとの思いで店の外に逃げ出ると、脇の道路とその先の林を仕切る鉄のフェンスが輪ゴムのようにグニャグニャと不気味に動いています。横を見ると高速道路の上にかかった陸橋までの登り坂のアスファルトは波打って溶け出しそうに生々しく、欅の木の下にしゃがみ込んだ私たちは異様な静けさに包み込まれていました。
急ぎ家に戻り母の無事を確かめてから娘を迎えに車を走らせました。
娘の高校に行く途中の信号は全て消え、所々、塀が倒れていました。
スーツ姿のサラリーマンが運動靴で歩いています。カーラジオから橋が落ちたと聞こえているのに、ジリジリ進む車のテールランプの点滅だけで、あたりは妙に静かです。
娘を連れて普段30分の帰り道が2時間かかったころには、深夜になっていました。
隣に住む老夫婦が車の中で毛布にくるまる姿を見ながら真っ暗な家に入り、灯油ストーブをつけ、冷たい布団にもぐりこみました。どこからか隙間風が入り、どこに行ったか見当たらない猫を心配しつつ眠りにつきました。
次の日リッター150円のガソリンは10リッターまでの制限になっていました。
店に着き落ちたレンジやステレオのスピーカー、曲がったレジ、床に散乱したガラスをづけていると、携帯ラジオを届けてくれた人がいました。
昭和11年生まれ父と同じ歳のOさんです。
名古屋で事業を興し、その後東京で一人長く暮らした人です。事情があって家族と離れ、その時は生まれ育ったこの地でアパートを借り一人暮らしをしていました。
人好きの人で社交的でありながら、相手の深い部分には踏み込まない人でした。
毎日、親戚の畑で働き畑で作った花と野菜を届けてくれていました。
「気にすんじゃねえぞ、好きでやってんだから」と、決まったコーヒーを飲みながら、色んなことを教えてくれました。
震災の次の年のこの時期、娘は大学受験に失敗しました。Oさんは「しょうがねえなぁ」とだけ言いました。
だけど、ずっと前から心配してくれていました。その後そのことには触れませんでした。
その夏、Oさんは体調があまりよくありませんでした。
「今年の夏はキツイなぁ」と言いながら日曜日も「いいよ、まかせろ!」と猛暑の畑で働いていました。
秋になって、名古屋の娘さんが帰って来てと頼むので、「今年の暮れは帰ろうかな」と言っていました。
でも、親戚の人達には言えなかったようで、帰らずに年を越しました。
年が明け、腰が痛いと言っていました。
病院では先生に「このヤブ医者、評判悪いぞ!」と言い、歯科衛生士のお姉ちゃんやガソリンスタンドのお兄ちゃんをからかっていました。
「真っ赤な酢ダコに砂糖まぶして醤油をつけて食うとうまいんだぞ」
「マヨネーズは大きいの月に2本は使うな」
「お花大切にしろよ」と言いながら、いつも店の前の花がらを摘んでいました。
店で知り合ったおばあさんの家の花壇の手入れをしたり、洗濯機がないという人には自分の洗濯機をあげたりしていました。
2月下旬の午前中、キャベツを一つ持って来てくれました。
痛そうに腰をさすりながら「じゃあな!」最後に見た姿でした。
4、5日連絡がないのでアパートに行ってみました。応答がありませんでした。ケガでもして心配かけないように何も連絡してくれないのかな、と思いながら大家さんを尋ねると、
「心筋梗塞で…」と、 涙が止まりませんでした。二人で声を出して泣きました。
娘の志望校合格の報告もできませんでした。
色んな人に支えられ、ここにいます。運命だと思っています。
Oさんがいたらきっと言ってくれるでしょう、
「気にすんな!大丈夫だから、お花大切にしろよ」
男らしい昭和の男でした。
ありがとうございました。フェレットの冒険みたいに行きます。